2012年05月04日

日本語と諸外国語との類似性&沖縄の行事と習慣と聖書の教え&景教と空海の関係

shimasolt01.jpg島マースーコーナー(あなたがたは、地の塩である)マタイ5:13
  その4

ハイサイ!
Are You チャ〜ガンジュ〜?

 
 前回、このコーナーで、現在、異なった国々の人々は、異なった言語を使って生活していますが、共通点も多々あります。
日本語の語彙は、中国語起源のものもあるし,朝鮮語起源のものもあり、またほかのアジアの諸民族起源のものもあります。
その中でも、特にヘブライ語起源のものが、多く見受けられます。「似たような発音と意味」の関連性を通して言語学を学ぶことも、楽しいかも知れませんね。


  たとえば、「イチ、ニ、サン、シィ、ゴ、ロク、ナナ、ハチ、キュウ、ジュー」という数え方は、中国語起源(漢数字)で、「イ、アル、サン、スー、リュウ、チー、パー、チィオウ、シー」が基になっている。しかし、もうひとつの数え方の「ヒィ、フゥ、ミィ、ヨォ、イッ、ムゥ、ナナァ、ヤァ、ココノ、トゥ」は和語で、ヘブライ語起源と言われています。 
 

 この言葉は、もともと、天照大神が天の岩屋戸の中に隠れ、世の中が真っ暗になった。この時、女神にそこから出てもらうために、女祭司コヤネが、他の神々の見守る中「祝詞」すなわち祈祷文を唱えた。それが、「ヒィ、フゥ、ミィ・・・」であった。
現在でも、神道の鎮魂法の祓詞として用いられています。

 
 この言葉は、日本語としてみると、特にこれとった意味はないのですが、これをヘブライ語としてみると、意味の通る言葉として、理解される。「ヒァ、ファ、ミィ、ヨッ、ツィァ、マ、ナーネ、ヤァ、カヘナ、トウォ」と発音され、、少しの訛りを修正すれば、つぎの意訳になります。「誰がその美しいかた(女神)を連れ出すのでしょう。彼女が出てくるために、誘いにいかなる言葉をかけるのでしょう。」という美しい詩文になります。


 以前、ハンガリー出身の数学者、ピーター・フランクルさんが、日本のテレビで、「日本語の塩、と水は、ハンガリー語でも「シオ」と「ミズ」と言います。日本人がそう言っても通じますよ。」と・・・。
ハンガリーと日本は、シルクロードの両端にあたるが、同じ言葉が存在するて、いいですね!

 
 

 日本人は、親しい人を呼ぶときに、「〜ちゃん」という。しかし、ロシア中央部に住むモンゴロイド系民族の中に、これとまったく同じ言い方をしている民族がおります。この前、テレビのクイズ番組の中で、彼らも互いを「〜ちゃん」と呼び合っていました。

 

  一方、ヒマラヤ山脈の麓に住むレプチャ族の言葉にも、日本語と同じものがあります。たとえば、「売る」は「ウル」、「汁」は「シル」「青」は「アオ」、背高「ノッポ」は「ニッボ」など・・・

 
 

 日本語の「ありがとう」は、ヘブライ語で「アリ・ガドゥ」(私にとって幸運です)と言う。「辺り」は「アタリ」、「壁」は「カベ」、「火傷」は「ヤケド」、「匂い」は「ニホヒ」、「刈る」は「カラ」、「許す」は「ユルス」(取らせる)、「登る」は「ノボー」、「憎む」は「ニクム」(復讐する)、「商う」は「アキナフ」(買う)、「かぶる」は「カブル」(うずくまる)、「書く」は「カク」、「住む」は「スム」、「訛る」は「ナマル」、「庇う」は「カバァ」、「困る」は「コマル」、「積もる」は「ツボル」、「いつ」は「イツ」、「童」は「ワラド」、「終り」は「アハリ」、「今日」は「カヨム」、「座る」は「スワル」(休む)など・・・


 このように、ヘブライ語との共通点がありますが、これは、ほんの一部にしか過ぎません。

 
 前回、英語の「History(歴史)」の語源は、「His Story(救い主の物語)」であると言いました。世界の国々の歴史や文化や言語に、
聖書の教えと深い関係があること、そして、沖縄の習慣や行事にも、聖書の教えとの類似性があります。

 
 

 たとえば、沖縄でサン(またはサンゲー)と言えば、ススキで作られた十字の型の魔除けのことです。それがイエスの十字架から発して
いると考えるウチナンチュウは、決して多くはいません。しかし、サンが魔除けであることには、聖書的な意味があると思います。


 「イエス・キリストは、33年間地上で生活なされ、十字架上で全人類の罪を贖いました。そして、葬られて3日目に復活され、40日間、十二使徒たちをはじめ、多くの人たちに、病を癒し、悪霊を追い出す力(権能)を与えました。ですから、十字架は、永遠の生命と力のシンボルです。

 
 

 十字といえば、昔、沖縄では、人が亡くなると遺体の枕元に「ムイバン」(盛ご飯のこと、茶碗のご飯に箸を十字に立てる)を置く。人が死ん
でから、1週間目に、外で燃やしていた火を消すときに、用いる道具はサンに3枚肉をはさんだもの、そして、ふたりのガードマンを両側に立てました。
 その理由は、万が一、他人がそこを通れば、悪霊がその人の中に入って死んでしまうと考えていたからです。ですから、この行事が、いかに厳粛、かつ厳格に行われていたかが分かります。

 
 「カジマヤー」(97才の長寿祝い)も、十字架にちなんだ行事です。カジマヤーとは、沖縄の方言で、「十字路」であり、「風車」を意味します。
97才の高齢になったら、「風車」で遊ぶ子供のような純粋な心に戻り、神の子のようになるという意味です。

 
 

 昔は、門中の人たちが集まって、カジマヤ―祝いの老人をカゴや馬車に乗せて、集落の七つの十字路(カジマヤー)を練り歩いて、お祝いを
しました。今は、オープンカーに乗って、赤色や黄金色のチャンチャンコや頭巾やハチマキをして、風車を持って沿道の人たちに手を振って、
長寿を分かち合っています。毎年、旧暦の9月7日に行われています。

 
 ミントングスクの伝承では、カジマヤーと神様が結びついています。「十字のカジマヤーは風車、しかし、それだけでは回らない。神様がその中心に息を吹きかけて初めて回り、生きることができる。1枚の羽は、アルファ(ギリシャ語の最初の文字)であり、4枚の羽が回ってオメガ(ギリシャ語の最後の文字)になる。」と・・・

 
 

 イエスが葬られたお墓は、岩をくりぬいたもので、広い岩室が設けられていました。沖縄のお墓も岩をくりぬいたり、緩やかな斜面を利用して、造ったものに、亀甲墓があります。亀の甲羅状の石の屋根の下に、畳にして4畳から大きい場合は8畳もある石室が設けられています。

 その理由は、当時は火葬はなく、死後数年間は遺骸を石室内に放置して、数年後に親族で洗骨して改めて骨壷に納骨して石室に収めた。石室は階段状になっており、一番奥の高いところに、一番古い先祖の骨壷から順序よく置いていった。

 亀の甲羅状の屋根が覆う部分は、母の胎内を表し、そこから人が生まれてきた出生以前の胎内を意味しています。

 
 

 中国の易経の世界観は、人の一生は、誕生以前の闇の黒冬、青春(青年期)、朱夏(壮年期前期)、白秋(壮年期後期)を経て、老い衰えて目も見えず、耳も聞こえず再び死の闇に戻る。この四つの季節に、東西南北が当てられ、それぞれを四聖獣が守護するといわれ、北の玄冬(老年期)に当てられているのが、伝説上の亀の一種、玄武であることから、母体の中の闇の世界を亀の甲羅で覆ったのであると考えられます。

 
 

 こうしたお墓は、沖縄本島の中南部によく見られますが、それ以外にも台湾、香港、中国の福建省などに多く見られます。景教徒が中国大陸の宗教や文化に大きな影響を与えたことがわかります。


 578年に、「西方の地」から景教徒が中国にやって来たが、当時の中国の皇帝は、まだ外国の宗教に対してオープンではなかった。皇帝は儒教徒の主張に従い、外国の仏教やキリスト教にも門戸を開いていなかった。そのために景教徒が中国に入っても、すぐにキリスト教の伝道が進んだわけではなかった。

 

 しかし、唐の「太宗」皇帝(在位626〜649)の時代になって状況が一変した。太宗は名君と言われ、広い心と包容力を持ち、洗練された文化を愛して、良いものなら、何でも外国からも取り入れた。635年に、景教徒オロペンは、21人の聖徒を率い、中国・長安に入って皇帝に謁見した。そして、キリスト教の教えについて、皇帝に説明すると、皇帝は感激して、「これほどの真理は儒教にも仏教にもない。朕(私)自ら信じるので、全国民よ、朕に学べ。」と述べたという。

 
 

 大宗はその後、景教徒たちに書殿において聖書を中国語に翻訳させ、自らその教えを宮中で学んだ。皇帝はまた、景教徒の中国での宣教を許可、638年に全国に布令を発した。同年に最初の景教のキリスト教会を、長安の都、に建設された。その後、中国各地に、キリスト教会が建てられました。

 
 

 空海は、805年、留学生として、最澄、遣唐使たちとともに、唐に渡り、長安にある仏教寺院・西明寺に入り、その後、諸寺を歴訪して師を求め、ついに長安の青竜寺の僧「恵果」に出会う。恵果は「真言密教」(真言宗)の僧侶で、真言宗第7世と呼ばれた人である。彼は中国の真言宗の大成者「不空」の弟子であった。

 空海は、この恵果から真言密教を学び、真言宗第8世となった。

 
 中国の長安の都には、空海がいた同じ居住区に、歩いていける距離に、景教の教会「大秦寺」があった。そこには、有名な景教碑の碑文を書いた「景淨」がいた。

 景浄は、カシミール出身の「般若三蔵」と交流があり、彼に景教の伝道を行なっていました。彼は景教にしだいに心酔し始めていました。

 般若三蔵は、空海にサンクリット語を教えた先生でした。二人はかなり激しい議論をかわした。特に絶対者をめぐっての論争で、実在する救い主は誰か?

 
 空海は、それは「仏陀だ」と答えた。それに対して、般若三蔵は、「違う、イエスだ」と反論した。こうした議論を通して、空海はキリスト教についてかなりの知識を吸収したのである。この時、空海は、景教徒にはならなかったが、その後の彼の思想や言動を見てみるとかなり景教の教えを吸収していたことがわかります。

 
 空海は、長安の都で、「マタイの福音書」や「新約聖書」を得て、日本に持ち帰った。真言宗の総本山・高野山のお寺の宝物庫に保管されていると言われています。

 ちなみに、あの景浄の碑文「大秦景教流行中国碑」のレプリカが、高野山にありますので、訪問される時には、漢和辞典を持って、読んでみてはいかがですか?

 
 1200年前の中国でのキリスト教徒が、どのような生活をしていたかがわかりますよ。

次の早い時期に、「大秦景教流行中国碑」の内容について検証したいと思います。 ご期待下さい!
 
 
 
 
 
 
 
posted by 沖縄のホフマー at 19:29| Comment(0) | 島マース(英智) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。